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2018年10月12日

ホバークラフト(大分ならではの貴重な乗り物)

日本語教師として海外に出ると、その国・その地域ならではの珍しい、貴重な乗り物に遭遇することがあります。

そんな貴重な「大分ならではの乗り物」が、昔、大分にありました。  続きを読む


Posted by jltoita at 14:47大分の思い出

2018年01月31日

スケート場と王子中学校

平昌オリンピックがもうすぐ始まる。韓国は九州から近いが、九州人にとっては、ウィンタースポーツはいまいち馴染みが薄い。
積雪も小学校時代に一度経験しただけである(1984年の「昭和59年豪雪」)。14cm程度の積雪で学校は半休となり、小学校のグラウンドで雪だるまを初めて作った記憶がある。
そんな私の数少ない大分でのウィンタースポーツ体験。それがスケートだった。
住吉川とスケート場
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Posted by jltoita at 19:28大分の思い出

2017年12月15日

役に立った大分の水圧の低さ

大分で経験していて海外でも役に立ったことの1つが「水圧」の低さ。

今はどうかはわからないが、私が住んでいた地域は一軒家でも水圧が低く、誰かが風呂に入ろうものなら、その間は台所の水やお湯の出が悪くなり、風呂とご飯の支度が両立しないぐらいだった。  続きを読む
タグ :海外大分県


Posted by jltoita at 17:22大分の思い出

2017年11月14日

稙田西中学校と深津さん

今も当時とほとんど変わらず田んぼに囲まれた稙田西中学校。
稙田西中学校

この風景、昔の豊府小学校を南東側から見た風景にかなり似ている・・・。


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Posted by jltoita at 19:47大分の思い出

2017年10月15日

四面緑田の豊府小学校

1980年代後半の豊府小学校のグラウンドの南東側。一面緑、田んぼだらけ。
豊府小学校1980年代
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Posted by jltoita at 15:19大分の思い出

2017年09月27日

ABC工場

懐かしのABC工場。工場の東側から3棟を臨む。
ABC工場


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タグ :大分市大分


Posted by jltoita at 03:59大分の思い出

2017年09月20日

コップン工場?

昔、大分市南太平寺2-3組あたりに、ポップン工場?と呼ばれる建物があった。子供だった私はまったく意味がわからず、コックンだかポップンだか(ポップコーンでも作ってるのか?)、なんとなく「音」的にしか理解していなかったが、そこは独特の臭いを放っており、たくさんのトラックが出入りをし、子供心に妙に記憶に残っている。
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Posted by jltoita at 03:20大分の思い出

2017年09月11日

大分医科大学と水野晴郎さん

毎年、秋口にさしかかると何となく映画解説者の水野晴郎さんを思い出すことがある。

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Posted by jltoita at 20:16大分の思い出

2017年08月06日

映画館は海外への扉だった

昔、映画館などで配っていた名刺サイズカレンダー(カード型カレンダー)。

懐かしの「E.T.」。
カードの裏面カレンダーには、昭和を感じさせる「1983 ミスターE.T.君に逢える素敵な年だ!」の宣伝文。
1982年の12月11(土)から大分オスカーでロードショーされたらしい。

大分オスカーE.T.
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Posted by jltoita at 15:44大分の思い出

2017年07月03日

大分パルコ(PARCO)の思い出

今は無き大分パルコ(PARCO)・・・の南西側(大分駅側)にあったドア。

大分パルコ
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Posted by jltoita at 03:41大分の思い出

2013年05月30日

かぼすコンニャクゼリー-大分土産に手ごろな蒟蒻娘

帰省時の大分土産としてざびえると並んでよく買っていたのが、かぼすのコンニャク・ゼリー

かぼすのコンニャクゼリー蒟蒻娘商品名は「蒟蒻娘」(こんにゃくむすめ)で、おそらく「蒟蒻畑」をモチーフにした(パクった?)、一袋数百円程度のお手頃価格で、一袋の中に一口サイズのカップに小分けされたコンニャクゼリーが、10個ほど入っていて、職場など、義理チョコならぬ義理ミヤゲとして挨拶代わりに大量に配らなければならない場合に、重宝していた。  続きを読む


Posted by jltoita at 16:32大分の思い出

2013年04月29日

大分銘菓ざびえる と上田町

嗅覚や聴覚というものは不思議なもので、以前なじみのある匂いや音楽に遭遇したとき、突然、昔の思い出をよみがえらせてくれます。

私にとって、その1つが、洋風菓子を焼く時の甘~い香り。

日本語教師で海外にいる時も、街中でふと、お菓子を焼く甘い香りを嗅いだ時、大分銘菓ざびえるを思い出してしまうのです。

昔、このお菓子「ざびえる」の工場は、羽屋陸橋の近く、現在では「ロフティ羽屋」のマンションとなっている一帯(大分県大分市羽屋上田町2-1組/大字羽屋177-1)がざびえるの製造元の長久堂の工場で、
ざびえる長久堂跡地

いつも「ざびえる」製造過程で出る甘~い良い香りがこの辺り上田町一帯、漂っていました。古国府循環の大分バスが通るこの前の通りが私の通学路だったため、毎日この匂いを嗅ぎながら学校に通っていたものです。

長久堂自体は、2000年10月の自己破産を経て、2001年4月に「ざびえる本舗」という新会社で復活。そのため今でも「ざびえる」は入手できますが、工場自体は、大分市大分流通業務団地1-3-11 のほうに移ってしまったようですね。おそらく今では流通業務団地一帯で、この甘い良い香りが漂っているのではないでしょうか。

大分土産ざびえるこの「ざびえる」の、ベロア調の黒地に赤い文字の菓子入箱は、子ども心に高級感あふれる品のあるお菓子、というイメージを持っていたもので、お菓子の空き箱に文具を入れたり、その後も大切に使っていたりしたものです。

先日も、とある海外の街中のスウィーツのお店の前を通りがかった時、同じようなこの甘い良い香りが漂っていて、上田町住宅集会室前の広場で野球をやった思い出やら川上歯科医院に通った思い出、そしてザビエルが南蛮貿易を彷彿させるのか、大分文化会館の舞台の「たれ幕の南蛮貿易の絵柄」やらトキハ名物「五時の市」のBGM「ペルシャの市場にて」などが、突然、フラッシュバックのように蘇ってきました。

嗅覚や味覚、聴覚の思い出というものは不思議なものです。五感は強烈に人の脳裏に焼き付ける効果があるようなので、日本語教師の授業も、こうした日本の特産物を食しながら五感をフルに使わせながら授業展開するのも、効果的なのかもしれません。

ざびえるはトキハ・デパートや大分駅などいろいろな所で購入できますが、今では通販でも直接買えるようですね。
■ざびえる本舗のホームページ
www.zabieru.com

大分のお土産として、ざびえる、お勧めです。  


Posted by jltoita at 15:25大分の思い出

2012年12月15日

トキハとアメリカの吉野家

アメリカでも日本語教師は、学校が夏休みなどのホリデー期間は、教員も休みになります。私もここぞとばかりに全米をくまなく旅したものでした。特にグレイハウンドバスの周遊チケットで地続きでローリングでつぶしていくように、景色の変化を楽しみながら各都市を訪れるのが好きでした。

アメリカ各地を旅していると、いろいろな日本食レストランを見かけますが、中でも多いのが、西海岸から東海岸まで100店舗近く展開している吉野家。私は日系企業支援の意味もこめて吉野家を見かけては入ってみることにしていました。旅中でも3日に一度は米飯を食べないと、何やら口内炎ができてしまう傾向もあったので。

アメリカの吉野家に入ると、日本の吉野家の通常店舗とはちょっと違い、アメリカの吉野家では、マクドナルドのように、カウンターでオーダーして、カウンターで牛丼(Beef Bowl)を受け取って、自分でそのトレイを持って着席する、というスタイル。
ちなみに「つゆだくでお願いします。」は英語で“ Extra Juice, please! ”などとオーダーします。

このアメリカの吉野家のスタイル、大分出身の私としてはとても懐かしいものを感じました。

というのも、以前、トキハの1Fに入っていた吉野屋が、(元あったファストフード店を改築したため)このカウンターでオーダーして、品物を受け取って、自分でトレイで持って着席する、というスタイルだったからです。

↓アメリカ・ニューヨーク 42nd Street の吉野家店内・カウンター
ニューヨークの吉野家カウンター
なんとなく昔、トキハ(本店)にあった吉野家を彷彿させる店構え。
NYの吉野家は、NYのど真ん中、ポートオーソリティ・バスディーポの前の非常に立地条件がよい場所にあり、長距離バスの乗り換えで時間がある度に訪れていたのですが・・・なんと2012年1月31日に閉店。家賃高騰のためとかで、移転プランもないようです。
アメリカの吉野家メニュー
アメリカの牛丼(Beef Bowl)は日本のそれに近いものがありましたが(というか長期アメリカに滞在していると味覚が狂うので日本のがどうだったかは微妙なタッチの差異の正確な判断には自信がありませんが)、それ以外にVegetable Bowl(野菜丼)やら、Teriyaki Chicken Bowl(テリヤキチキン丼)やら、おもしろいメニューがアメリカの吉野家にはあります。

特にVegetable Bowl(ベジタブル・ボウル)は、大切りのブロッコリーとニンジンがそのまんまドンと白飯の上にごつごつ乗っているだけで、「なんだこれ?」という感じではありますが、アメリカではベジタリアンや、宗教上の理由で肉が食べれない人種もたくさんいるので、こういうメニューのバリエーションになっているのでしょう。
↓こちらはロサンゼルス(LA) 7th Street の吉野家
吉野家メニュー海老天丼
LAの吉野家もやはりカウンターでオーダーして、トレイに乗せて自分で席へ向かうスタイル。私は食べそこねましたが、Shrimp Bowl(えび天丼)はおいしそうでしたね。

広々としたファミレスのような店内はアメリカの吉野家ならではですが、なんとなく、こちらも昔、トキハ・デパートの1階に入っていた吉野家を彷彿させるものがありました。

私の記憶では、確かトキハの吉野家があった場所(トキハデパート本店の正面右側・1F,電光掲示板の下)は、ロケーションがよいためか、テナントの移り変わりが激しく、歴代、

■旅行代理店(?)・・・1970年代?

■ファーストキッチン・・・1980年代?

■ダンキンドーナツ・・・1980年代-1990年頃?

■吉野家・・・1993-1997年頃?

■ルイ・ヴィトン/LOUIS VUITTON (2000年頃~現在)

と変遷していったと記憶しています。年代は曖昧、もしかしたらそれ以外にも漏れている店舗があったかもしれませんが・・・

何はともあれ、カウンター席がなく、カウンターでオーダーして、自分でトレイで運ぶスタイルの吉野家を初めて経験したのが、大分・トキハの吉野家でした。ひょんなことで地球の反対側で故郷を懐かしんだりするものです。

日本語教師としては、海外と日本の吉野家のメニューや味などの比較と、海外展開するジャパニーズ・ファストフードの代表格である日系企業の様子を日本経済と絡めて学ぶような授業を1度、教案として取り入れてみるのも面白いかもしれませんね。

そういえば、トキハ・デパートには今もエスカレーター・ガールはいらっしゃるのでしょうか。昔は昇りエスカレーターの前に常駐して「お子様のお手を引いてお乗りください。」的な案内をされていた記憶がふっと沸いてきました。肉声の注意の呼びかけは、機械音声よりもやはり温か味があるのか、今も耳に残っています。手前に組み合わせていた両手に はめていた白い手袋も妙に印象的でした。今もいたら、日本的サービス文化として世界的にも希少な気がします。
エレベーターガールなら東京などでも今でも見かけることはありますが・・・  


Posted by jltoita at 19:27大分の思い出

2012年12月02日

「笑っていいとも」は夕方から放送していた大分県

なんとなくTVを見ていてふと思い出したのでメモがてらに。

大分では昔(1980年代など)、タモリさんの森田和義アワーこと「笑っていいとも」は夕方放送していました。

夕方16:20~とか、16:00~とか、17:00~とかの時差録画放送で、その時間帯も年度によって(?)微妙に変わっていたと記憶しています。

というのもなぜそんなことがハッキリ覚えているか、というと、私が中学時代、足の複雑骨折で3週間ほど入院したことがあり、その病院の晩ご飯(夕食)の時間帯にちょうど「笑っていいとも」が放送されていて、病院でご飯を食べながら「笑っていいとも」なるものを初めてみたからです。
(私が入院した病院の晩ご飯は、16:00頃から配膳が始まっていたと記憶しています。なんで病院の晩ご飯がそんなに早いのか調べたら、医学的な根拠はなく、ただの病院に勤める調理スタッフの都合のようですね。調理スタッフは主婦のパートが多く、早めに仕事を終わらせて、家に帰る必要があるからだとか。)

部活や塾通いなどをしている中学・高校生にとって、夕方のその時間帯は、通常、テレビなどまったく見る機会がないのですが、入院中のその時間帯のテレビ体験は、強烈に覚えています。

確か、ターミネーターのアーノルド・シュワルツェネッガーが初来日して「笑っていいとも!」に出演し、登場と同時に胸筋をピクピク動かして笑いを取っていた記憶があります。

大分での「笑っていいとも」の当時の放送局は5チャンネルの大分放送:OBS(Oita Broadcasting System)でした。今は東京などと同じで昼12:00~、テレビ大分:TOSで放送しているようですね。

こんな感じで、大分では放送局と放送番組がチャンプルー状態なので、大分にいた頃は正直、フジテレビとかTBSとか日本テレビとかの親元の放送局のカラーの違いなどまったくわからなかったのですが、学生時代、東京に出てきてからようやく民放各社にカラーの違いがあることを知りました。

大分にいると何かと時差やハンディキャップがあるものです。

そういえばタモリさん、昔(1972年頃)大分県に住んでいて、かつては日田市のボウリング場の支配人だったそうですね。
  


Posted by jltoita at 03:20大分の思い出

2012年11月27日

鹿鳴春・いたや

主に1970年代、80年代にお世話になった「青春」?「家族」の思い出の味である、大分の食物屋さんがいつのまにか何点かなくなっていたので、アナログ時代とともにこのまま記憶も葬り去られるのもなんなので・・・
私はこの思い出を無きものとされてしまう気がしました
ならば と筆を執った次第にございます
私がこの出来事*に抗う術(すべ)はひとつ
この思いを記すことでございます
 ※ドラマ 「JIN-仁」 橘 咲 (綾瀬はるか)さんの台詞より/* この出来事=歴史の修正力
人間は古代パピルスの時代から・・・いや、もっとそれ以前から文字に情報を託して後世に伝えることで発展してきました。日本語教師としても常日頃、文字や言葉の重要性を痛感させられています。
・・・ということで、デジタルに記録として残すべく、当時の回想がてらメモを以下に。

鹿鳴春

ろくめいしゅん。中華ファミリーレストランで結構大きな店内だった。レジの横に、お子様向けのオモチャ売り場やアイスクリーム、ガムが売られている、よくあるファミリーレストランの形(今で言う「バーミヤン」のような感じ)だが、実家が近くだったこともあり、家族の誰かかが誕生日の時などに夜、家族で食事に出かけた思い出のレストラン。鶏の唐揚げやカタヤキソバ、餃子が好きだった。子供にとっては何でもおいしいものである。木耳(キクラゲ)を初めて食べたのも鹿鳴春だったような気がする。
鹿鳴春の所在地は、南大分中学校の横、現在は「うえお乳腺外科」となった、〒870-0854 大分県大分市羽屋188-2あたりにあった。跡地が病院になったことからも、駐車場含めた鹿鳴春の大きさが偲ばれる。
南中(なんちゅう)の運動会の日などに昼飯タイムに親と入ったこともあった記憶がある。接客責任者の年配の女性が何となくこちらの顔も覚えてくれていて、いつも丁寧に接してくれたことを覚えている。「うえお乳腺外科」が2002年10月開院なので、鹿鳴春はおそらく2000年頃までは営業していたのではないか、と推測する。
ネット上では2004年9月のもので、「確か熊本の親会社が潰れて「鹿鳴春飯店」って名前で自主営業してました。」という記述は見つけた。

いたや

洋食レストランの「いたや」さん。こちらも2011年1月に閉店したらしい。こちらはネット上にも記事が散見でき、店主(渡辺正勝さん)の、確かに見覚えのある顔が掲載されていた。↓
www.oita-press.co.jp/localNews/2011_129513964573.html
所在地はトキハデパートの裏にある「いたやビル」:大分県大分市府内町2丁目2
1Fが厨房とカウンターなど、2Fが個室になっていて、ここも家族の誰かが誕生日などの特別な時などに1970年代、1980年代にお世話になった。子供心にはポタージュスープとハンバーグがおいしかったことを覚えている。確か個室はカーテンなどで間仕切り調整できるようになっていて、これまた子供心に、隣室の客でカーテンがゆらゆら揺れるのが楽しかった?記憶がある。フォークやスプーンで食べるのが難しい子供にとって(またそんな子を持つ親にとって)個室というのは作法などの点で他人を気兼ねなく食事を楽しむことができ、品格と格式がありながらも庶民派の洋食屋さんだった。1967年から営業し、1972年に府内町のこの店舗に移転したとのこと。2011年に43年間の幕を閉じたとのこと。ごちそうさまでした。ありがとうございました。

焼肉どっとん

愛隣幼稚園の近く、南太平寺16組辺りにあった「焼肉どっとん」。今あるのか定かではないが、欧米人のような(でも日本人男性の)店長さんが印象的だった。こちらも家族の誰かかが誕生日の時などに食べに訪れた。1970,1980年代の話。

トキハの「さぬきうどん」

どうやらここももう無くなってしまったのかもしれない。昔、1970年代~1980年代中盤?くらいまでトキハデパートの地下食品売り場の一角で、カウンターと少々の向かい席だけの縦長の狭い店舗で営業してて、その後、トキハ会館ができたと同時に会館のほうにそのまま移転した「讃岐うどん」。店名は確か「さぬきうどん」オンリーだった気がする。トキハに買い物に行った際などに母親とよく立ち寄ったお蕎麦屋さんで、いつもうどんではなく、「海老天そば」などのざるそば系や、たまにお稲荷さんも注文していた。コシのある太面系のそばが大好きだった。そばといえば今でもこのトキハの「さぬきうどん」を思い出す。
接客される年配の女性が小さい頃から訪れていた筆者をよく覚えてくれていて、行く度に「大きくなったねぇ」などと話しかけてくれた。入口の、よくあるタヌキが立った像が子供心に印象的だった。もしかしたら今は「実演手打ちうどん 杵屋 大分トキハ会館店 」に変わってしまったのかもしれないが、その辺りは定かではありません。
■なんだか今回トキハと書いたらこの音楽↓が頭に中にふっと沸いてきてしまいました。
www.youtube.com/watch?v=zkD7TRmRLRw
トキハといえばトキハ名物「五時の市」、そしてそのBGMの「ペルシャの市場にて」
この音楽を聴きながら「さぬきうどん」で蕎麦食べてました。これを聴く度にいつでもどこでも、世界の地の果てでもトキハデパートを思い出してしまいます(笑)。
この激変の時代に何十年も営業し続けているトキハ・デパートはすごいですね。敬服と郷愁の想いでいっぱいです。

諸行無常。大分も一時も止まらず変身し続けていることを、過去を思い返した今日改めて実感しました。

それにしても日本はいろんな食べ物が何十年にも渡って食べることができている幸せな国だとつくづく思います。海外ではとてもこうはいかない国も多くあり、また、これからようやく1970年代の日本レベルになろうとしているアジアの国々も多くあり・・・いろいろ考えさせられます。

上記店舗のみなさん、ごちそうさまでした。そしてありがとうございました。いただいた思い出と栄養は、今でもしっかりと私の中で息吹いています。  


Posted by jltoita at 03:02Comments(0)大分の思い出

2012年11月26日

松坂神社・上野丘高校

大分県内で有名な高校の1つといえば、大分県立大分上野丘高等学校かもしれませんが、私にとって上野丘の思い出といえば、ノコギリクワガタを捕獲したこと。

上野丘高校のグラウンド隣に松坂神社という木々に囲まれた神社がありますが、私は小学生の頃、その境内の木でノコギリクワガタを捕獲することができました。当時、私にとって、この上野丘周辺から大道トンネルまでの南太平寺の山一帯は庭みたいなもので、ありとあらゆる森林の中をくまなくかけずりまわっては、クワガタやらカブトムシを捕獲していたものです。
小学校の夏休み約40日中35日ぐらいはこの南太平寺の山で遊んでいた夏もあったと記憶しています。
(google マップの航空写真でのぞくと、太平寺の山もずいぶん緑が削られ、住宅地化してしまったように見受けられます。)

当時、南太平寺の山で採れるのは、圧倒的にコクワガタやヒラタクワガタが多く、カブトムシは小ぶりなものがたまに採れる程度。子供心に、オオクワガタやノコギリクワガタ、ミヤマクワガタが憧れの的で探し求めていたのですが、この松坂神社で取れたノコギリクワガタは大きさも美しさも申し分なく、私が捕獲した最初で最後(?)のノコギリクワガタとなりました。(確かその日は梅乃家弁当* の息子(御曹子?)さんと一緒にいった記憶が・・・)

松坂神社からは上野丘高校の野球部の練習などを見ることができ、子供心に畏怖の念を抱きながらも大きな高校生の迫力ある部活動の様子を見ていたものでした。

上野丘高校といえば、私にとっては一種のトラウマで・・・私以外の家族4人全員が上野丘高校出身なのですが、私は当時の悪しき合同選抜入試制度のせいで(人気の上野丘高校を志望した場合、家の近くの高校を志望したら遠くの高校へ飛ばされる可能性が高い)、とのことで、上野丘高校には行くことはありませんでした・・・今でもプロ野球のドラフト制度を見るたびに、自分の人生の進路希望がかなえられない、抽選による進路決定というものにもどかしく思うものが多々あります。

そういえば、最近21時のNHK「ニュースウオッチ9」のスポーツコーナーで活躍されている廣瀬智美アナウンサーは上野丘高校のご出身なんですね。

この上野丘周辺の思い出も多々ありますが、上野の坂を下った古国府に、同級生の実家でもある三福寺があり、年末は除夜の鐘をつき、甘酒をご馳走になりによくうかがったものでした。

大晦日は三福寺で過ごし、年が明けたお正月の三が日のいずれかに、春日神社(大分市勢家町4丁目6-87)に初詣に行く、というのが我が家の毎年の家族行事として恒例でした。懐かしき思い出です。

さて、お寺と神社のハシゴですが・・・日本語教師としても、お寺と神社の違いをたまに外国人に尋ねられることがあります。

■ お寺と神社の違い

お寺は仏教であり、神社は神道であり・・・などと理屈から説明しだすと長くなり、ましてや外国人にとってはチンプンカンプンなので、私は端的に、外国人には以下のようにまず説明するようにしています。
神社は結婚式をするところ。お寺はお葬式をするところ。

For example, some Japanese have their marriage ceremonies at Jinjya conducted according to Shinto rites. But we hold funerals at O-tera(Buddhist temple).

外国人に日本語や日本文化を紹介するときは、いかに端的にハッキリと答えることができるか?がポイントになります。

まずはわかりやすい結論(最たる特徴)を述べて、次に、興味がある外国人にはさらなる追加説明をしていくテクニックが求められます。

あと、

「神社の神道は宗教ではないのですか?」 Is Shinto not a religion then?

などと突っ込んで聞かれることもありますので、

「どちらとも言えません。神道は日本固有の自然宗教のようなものです。でも教祖も教典もないので、仏教やキリスト教などとは異なります。」
Yes and no. Shinto is a kind of natural religion indigenous to Japan. But it is different from such religions as Buddhism and Christianity since it has no founder nor book of scriptures.

と答えるようにしています。

日本語教師の面白さの1つは、やはり外国人目線で改めて日本について気付かされることですね。異文化衝突の最前線では、日々、目からウロコの体験の連続です。
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*梅乃家・・・「なお、大正時代から駅弁を販売してきた梅乃家は、2007年11月に駅弁事業から撤退。同社のホームの立ち食いそば・うどん店とコンコース内の食堂は残っていたが、2012年3月に高架化に伴う構内の改装に伴い閉店した。」( ja.wikipedia.org/wiki/大分駅 より)
家に遊びにいったら、よく余ったお弁当をおすそわけしてくれてました。小学生の私にとってはとてもゴージャスでした・・・梅乃家弁当、おいしかったです。  


Posted by jltoita at 20:15大分の思い出